伊勢型紙の始まりは諸説ありますが、室町時代の絵師が「職人尽絵(しょくにんずくしえ)」に型紙を使う染職人※を描いているところから、室町時代末期と考えられています。
伊勢型紙は、和紙を加工した紙(型地紙)に彫刻刀で、柄や文様を丹念に彫り抜いたもので、友禅、浴衣、小紋などの柄や文様を染めるのに使われています。
現代人の着物離れや、染色の技術進歩による型紙需要の減少が進む中、伊勢型紙の技術を伝えていくために、伝承者の養成をする技術保存会は、型紙の新しい活用法として照明器具や建築建具への応用を図っています。
※染職人 : 絹、綿、麻などの繊維製品を、手描き染め、型染め、絞り染めといった様々な技法で染め上げる職人
大堀相馬焼は、江戸時代中期の元禄3年(1690年) 現在の福島県双葉郡浪江町の「大堀地区」に開窯(かいかま)し、そこで江戸時代末期には120戸の窯元を持つ東北随一の産地として発展しました。
大堀相馬焼の特徴は、青磁釉(せいじうわぐすり)によるひび割れが器全体に広がった模様の「青ひび」、お湯を冷めにくくする「二重焼き」、熟練された筆使いで手描きされる旧相馬藩の御神馬(みかみうま)「馬の絵(走り駒)」 などがあります。
2011年3月の東日本大震災により、窯元はすべて町外へ避難を余儀なくされましたが、現在は、一部の窯元が窯を再建し作陶に励んでいます。
天童将棋駒は、江戸時代後期に天童織田藩(てんどうおだはん)が財政立て直し策として、藩士に「書き駒」づくりを奨励したことで始まりました。
明治時代に入ると、駒を作る「木地師(きじし)」と駒に漆で文字を書く「書き師」、駒木地に文字を彫る「彫り師」へと分業が進み、大正時代には機械化により大量生産されました。現在では全国の生産量の95%が天童市で作られており、書駒(かきごま)、彫駒(ほりごま)、彫埋駒(ほりうめごま)、そして最高級品の盛上(もりあ)げ駒があります。
伝統と確かな技術で丁寧に作られた将棋駒はその美しさで、人々を魅了し続けています。
江戸和竿(えどわざお)は天明(てんめい)年間(1781年~1788年)に、泰地屋東作(たいちやとうさく)が東京都荒川区の下谷稲荷町(したやいなりちょう)の広徳寺前で開業したのが始まりとされています。
江戸時代後期には、天然の竹を用いて作られる継(つ)ぎ竿(ざお)として、美術工芸の域にまで達し、今日の江戸和竿が完成しました。
江戸和竿師は、竹の切り出しから塗師(ぬし)仕事まですべての工程を手作業で行い、丹念に製作しています。
和太鼓の歴史は古く、縄文時代には情報伝達の手段として人々の生活に利用されていたといわれています。江戸時代には祭礼行事の伴奏として、太鼓演奏が盛んに行われました。
香取市の佐原周辺には江戸時代から太鼓専門店が集まっており、現在も伝統技術と技法を受け継いだ専門店が点在します。
ユネスコ無形文化遺産に登録された「佐原の大祭」では日本三大囃子「佐原囃子(ばやし)」の太鼓の音が町中を響かせます。
尺八は7世紀ごろ、仏教とともに唐(中国)から伝来した楽器といわれています。南総尺八は真竹を原材料として、中継ぎ部分を山桜の皮で巻きつけるなど、竹の優美さを生かして製作されます。使用する竹を3年程乾燥させ、低音の響きが良いもののみを手がけます。