尾張七宝は、天保年間(1830~1844年)にオランダから輸入された七宝焼の皿を手がかりとして、尾張国の梶常吉(かじつねきち)がその製法を発見し、改良を加えたことが始まりとされています。
その後、尾張地方で地元農家の人々の間で産業として根付き広まっていきました。
特徴は、銀や銅の金属素地の表面に、色付きのガラス質の釉薬(ゆうやく)を施すことです。
さまざまな技法があり、それらを組み合わせて新しい技術が生まれています。
熟練の技が輝く工芸品。鮮やかな模様や色味が人々を魅了します。
首里織は、那覇市首里に伝わる紋織物(もんおりもの)や絣織物(かすりおりもの)を総称する名称で古くは王府の城下町である首里で、王家や貴族、士族のために織られました。
絹糸を中心に木綿糸、麻糸、芭蕉糸などの素材を植物染料や化学染料で染め上げ、機(はた)を用いて手織りします。多彩に織られるのが特徴で、首里花倉織(はなくらおり)※1、首里花織※2、首里道屯織(どうとんおり)※3などさまざまな種類があります。
現在では、時代に合わせてテーブルマットなどの生活用品や、かりゆしウエアなど多くの製品が作られています。
※1首里花倉織:最も格式の高い織物で、王家の妃、王女が着た夏衣
※2首里花織:士族以上の着衣
※3首里道屯織:男物官衣
江戸つまみかんざしは、江戸時代初期に、京の宮廷女官たちが着物の余り布を用いて花飾りを作ったことが始まりとされています。
羽二重(はぶたえ)と呼ばれる着物の裏地等に用いられる小さく切った正方形の薄い布をつまんで折りたたみ、組み合わせて作ります。
素材の軽さと安価に買える手軽さが人気を呼び、江戸の町娘や、旅人たちの間で流行りの土産物として好まれました。
明治以降、現在まで、お正月、七五三、成人式、結婚式などの晴れの日に、女性の着物姿を一層ひきたたせる髪飾りとして受け継がれています。
箱根寄木細工は、江戸時代の末期に箱根町畑宿(はたじゅく)に住む石川仁兵衛(いしかわにへい)により制作され、東海道を往来する旅人たちの土産物として広く知られるようになりました。
特徴は、樹木の自然の色合いを生かした幾何学模様です。
種類や色の異なる木材を組み合わせた種木を鉋(かんな)で薄く削り、箱物や小物に貼り付ける「ズクもの」、種木自体を切ったり、ろくろ挽きをして椀や皿を作る「ムクもの」があります。
職人達は伝統の技術・技法を守りながら、現代の生活に溶け込むような新しい寄木細工を作り続けています。
南部鉄器は、17世紀初め、現在の岩手県盛岡市を中心とした地域を治めていた南部藩が、京都から茶釜職人を招いたのが始まりとされています。
18世紀になって茶釜を小ぶりに改良したことで、茶の湯の発展とともに全国に広がりました。
砂で作った鋳型(いがた)に銑鉄(せんてつ)を流し込む「焼型法(やきがたほう)」という製法で作られており、およそ65個の工程を経て完成します。ひとつの原型からはひとつの製品しか出来ません。
現代では、茶の湯釜や鉄瓶などの伝統工芸品だけでなく、キッチンウェア・風鈴・インテリア小物なども開発・製造され、世界に南部鉄器の魅力を発信しています。